本コラムは、ダイヤモンド社発行の「DX戦略の成功のメソッド~戦略なき改革に未来はない~」の第5章の抜粋記事です。
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HRDX
(1)成果獲得のポイント
① バックボーンなきHR(ヒューマンリソース)DXは混乱を招くだけ
HRDXとは、人事に関わるデータの解析を通じて、人材活躍に向けた仕組みの最適化を図り、経営戦略・事業戦略の達成を目指すことである。昨今、デジタル化の急速な進展で各種データの収集が容易となり、統計的な分析・解析によってエンゲージメントの向上や人材要件の見直しなど、効率的な人事施策の立案に向けた動きが本格化している。
例えば、社員(離職者、不採用者も含む)の人事データを一元管理・可視化して人材開発や適材適所の配置・育成に活用する「タレントマネジメント」に取り組む企業が増えている。これは社内で管理している社員情報を、1つのデータレイク(大量の生データの貯蔵庫)に格納し、それをもとにデータを加工。さらに人事KPIを設定して「HRダッシュボード」を作成する。人事KPIは、社員の総人員数や男女比、年齢構成、有資格者数、離職者数、社員エンゲージメントや高ストレス者率の推移などが多い。現状レベルと目標値との比較を可視化し、ギャップを埋めるための人事施策や経営上の意思決定に活用するというものである。
従来の人事領域では、個々の人材が持つスキル(技術)やノウハウ(技能)を「その人に固有の感覚的な能力」と捉えていた。そのため、これらの技術・技能が暗黙知化し、定量的に評価することも難しかったのが現状である。HRDXはその〝ブラックボックス〟を解消すべく、人事データを活用して感覚的に量る能力から「統計的に測る能力」に変換しようとするものだ。ただし、やみくもにデジタルツールを導入してもHRDXは成功しない。つまり、デジタルツール(HRテック)によって採用管理や人事評価などの人事業務を効率化することだけがHRDXではないことに留意すべきだ。
HRDXの成果獲得のポイントは、基本属性(生年月日、年齢、性別、住所など)や保有免許・資格、所属部署、経験業務、勤怠状況、実績、エンゲージメントサーベイや適性検査、性格診断などの人事データをもとに、経営・事業戦略と連動した最適な人材配置、エンゲージメントマネジメントの仕組みを充実させる人事戦略があるかどうかだ。
とはいえ、人事戦略と経営戦略・事業戦略が連動していない、あるいは人事戦略すらない企業も見受けられる。だが、背骨(バックボーン)のない動物は体を支えられないのと同様、企業もバックボーンを持たなければ経営を支えることはできない。HRDXは価値判断の基準となる「経営理念」「ビジョン」を起点に、それにひも付く経営・事業戦略と連動した人事戦略のもと、一気通貫したシステムである必要がある【図表5‐20】。
どのDXについても同様のことがいえるが、戦略が不明確な手段としてのDXは結果として生産性と競争力を低下させてしまう。ましてや、DXを目的にするのは本末転倒であり、組織の混乱を招くだけである。
② ピープルアナリティクス
人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値の向上につなげる「人的資本経営」が近年注目されている。人的資本の情報開示を求める投資家の声が強まり、上場企業を中心に人事データの収集・分析ニーズが高まった。これに伴い、勘や経験から感覚的に判断していた人事業務を、社内に蓄積している人事関連データの分析に基づいて戦略的に意思決定する「ピープルアナリティクス」に取り組む企業が増えている。
前述したタレントマネジメントは人材データを一元管理して可視化することであるが、ピープルアナリティクスはその人材データを収集、分析し、統計的アプローチやエビデンスに基づき人材の採用・育成・配置・評価のほか、退職防止や人事施策の意思決定を行う。つまりタレントマネジメントはピープルアナリティクスのためのサポートシステムとして機能する。
ピープルアナリティクスのデータ閲覧・分析ツールは、主に統計分析ソフトやBI(ビジネスインテリジェンス)ソフトのダッシュボード機能、エクセルなどの表計算ソフト、人事基幹システムの分析機能、コンサルティング会社が提供するデータ処理・分析サービスなどがある。
分析する人事データは大きく「動的データ」と「静的データ」に分けられる。前者は社員の日々の活動を示すデータ、後者は1年に数回しか更新されない個人の属性データであり、ピープルアナリティクスで重要なのは前者である。具体的にはエンゲージメントサーベイの結果やモチベーションの変化、勤務時間や残業時間、パソコンのログ、工場や店舗であれば行動導線などが挙げられる。一方、後者の静的データは社員の性格診断や資質診断の結果、人事評価、スキル・資格などである。
静的データはエクセルなどで管理している企業が多く、管理できていない企業でも簡単にデータを収集することができる。それに対して、動的データは収集できていない企業が多く、収集もしづらい。だが、ピープルアナリティクスには動的データは欠かせない人事データなのだ。
では、具体的にどのようにピープルアナリティクスを実施するのか。新卒採用を例に説明しよう。最初に分析対象データを用意する。ここはタレントマネジメントシステムで管理しているデータを活用する。ここでの分析対象データは、「学生情報」(適性検査・ステータス)と「社員情報」(同)、いわゆる静的データである。
社員情報を整理し優秀な実績を残している人材を抽出する。そこから優秀な人材は「なぜ優秀なのか」、例えば優秀人材はどんな性格なのか、上司・先輩と相性がよいのか、仕事の仕方はどうかなど、人事データに基づいて統計的に分析する。
学生と優秀人材のデータを照らし合わせて分析することで、新卒人材要件の設定や選考方法の設計、教育体系の見直しなど、効果的な人事施策が立案できる。このピープルアナリティクスで用いられる主な分析手法は次の通りである。
●回帰分析......結果と原因の関係を明らかにする。離職分析やハイパフォーマー分析などが挙げられる。どのような人材が離職したり好成績を残したりするのかを統計的に明らかにする。
●重回帰分析......結果と複数要因の関係を明らかにする。どの要因が結果に対し最も影響を及ぼしているかがわかる。回帰分析での要因の影響度を見る場合などに用いられる。
●t検定......同じ項目の2つの平均値を比較し、統計的に有意(確率的に偶然と考えられず、必然である可能性が高い)な事象かどうかを分析する。業務改善分析、人事施策の効果測定が挙げられる。例えば、人事制度の改定前後に社員のエンゲージメントを調査し、改定後にエンゲージメントが上がった(下がった)のは偶然ではなく、有意な事象であることを実証する場合などに使える分析手法である。
●クラスター分析......異なる性質を持つクラスター(集団)を、類似点や共通項で分類する。組織分析や最適配置分析などが挙げられる。社員個人の属性データを分類することで人事異動などの意思決定精度を向上することができる。
このほかにも分析手法は存在するが、いずれにせよ分析自体はシステムやAIが行う。ただ分析目的の設定や分析対象データの選定、分析結果の考察とそれに基づいた人事施策の立案は、当然ながら人が行う必要がある。
(2)【実装事例】荏原製作所/ピープルアナリティクスAIと「アンバサダー制度」
大手産業機械メーカーの荏原製作所(本社・東京都大田区)は長期ビジョンと中長期経営計画に基づき、経営・業務部門・IT部門が三位一体となって攻めと守りのDX戦略を推進している。なかでも「人材の活躍促進」を重要課題の1つとして掲げており、効率的・効果的な人材計画や人材配置を実現するためHRテックの活用に着手。そして2022年、自社開発のピープルアナリティクスを新卒採用で導入し、多様なタイプの人材獲得で成果を上げているという。
①企業概要
同社は東京帝国大学(現・東京大学)・井口在屋教授が考案した渦巻きポンプ(遠心力を利用したポンプ)の実用化を目的に、弟子である畠山一清氏が1912年に創業した「ゐのくち式機械事務所」を起源とする。当初は大学発ベンチャーの設計事務所だったが、2年後に工場を設置して操業を開始。水道向けポンプの国産化に成功するなどして飛躍を遂げ、現在は祖業のポンプを中心に風水力事業、廃棄物処理を手掛ける環境プラント事業、半導体の製造装置やコンポーネントを製造する精密・電子事業を展開している。標準ポンプや冷却塔で国内トップシェア、半導体製造装置(CMP装置)では世界2位のシェアを占める。2022年12月期連結決算では売上高、営業利益ともに2期連続で過去最高額を更新し、コロナ禍前(2019年12月期)に比べ売上収益が約1.3倍、営業利益は約2倍に達するなど好業績を上げている。
同社は2020年、10年後(2030年)を見据えた長期ビジョン「E‐Vision2030」を策定・公表した。「技術で、熱く、世界を支える」というスローガンを旗印に、2030年に向けて解決・改善していく「5つのマテリアリティ」(重要課題)として「持続可能な社会づくりへの貢献」「進化する豊かな生活づくりへの貢献」「環境マネジメントの徹底」「人材の活躍促進」「ガバナンスの更なる改革」を設定した。このうち人材の活躍促進については、多様な人材が働きがいと働きやすさを感じながら活躍することで、〝競争し挑戦する企業風土〟を具体化するとしている。
同社は2030年のあるべき姿として「国籍・性別を問わず、自ら考え、スピード感をもって、積極的に新たな挑戦をし、目に見える成果を出す」企業を目指すとし、それに対する現状の課題をピックアップ。あるべき姿とのギャップを埋めるため対策を整理した【図表5‐21】。
社員の資質や適性を可視化し、効率的かつ効果的な人材育成と配置を行うため、先端のHRテックを駆使する「HR tech専門チーム」を2021年に設置するとともに、2022年度入社の新卒社員の採用活動で自社開発したピープルアナリティクスを導入した。2022年にはVR(仮想現実)のヘッドマウントディスプレイとメタバースを活用し、仮想空間での体験から得られる生体情報とピープルアナリティクスを融合させ新たな人材開発モデルの構築に取り組むなど、独自のHRDXを展開し注目されている。
②HRにおける課題
同社は2017年を初年度とする中期経営計画「E‐Plan2019」で、「競争し、挑戦する企業風土」を目指す方針を掲げ、人事制度・組織体制・働き方改革を含む企業風土改革を実施した。人事制度改革では、年功序列の排除と実力・成果主義の徹底を図るため、職務の遂行能力を評価(経験重視)する職能等級制度から、役割の達成度を評価(成果重視)する役割等級制度に移行。また「総合職」「一般職」など従来の職群を廃止したほか、基幹職(管理職)要件の認定試験を刷新し、年齢・性別・国籍を問わず実力を適切に評価・処遇する人事制度の運用を開始した。さらには組織運営の効率化を目的に組織階層のフラット化(3階層化)を進め、組織数を全体(国内の主要子会社を含む)で4割減少させた。
一方、多様で優秀な人材を採用するため、社員が一緒に働きたいと思う人材を自ら推薦する「リファラル採用」を2019年から導入。2020年には外国人留学生や海外の大学を卒業した日本人学生を対象に10月入社を導入するなど、時期にとらわれない採用活動でグローバル人材の獲得にも注力している。また2021年度の入社者より「職種別採用」を開始した。それまで新卒採用者の配属先は入社後に本人の適性を見て決めていたが、応募の段階で学生が就きたい職種を選択できるようにした。入社後のミスマッチを防ぐとともに、早期の段階からキャリアパスの設計を主体的に考えてもらうことが狙いだ。
タスクダイバーシティー(能力・経験・知識など内面的な多様性)の推進により、新卒者、キャリア人材、海外留学生、外国籍人材などから幅広く挑戦する人材を採用する同社だが、その人材を選ぶ側である社内の採用担当者は自分の経験や知識をもとに評価し、面接でも「(自分と)波長が合った」「感じの良い人だった」など主観的に採否を判断していた。人材要件に従って公平に評価したつもりでも、同質的な人材の採用に偏ってしまう。結果として組織が硬直化し、多様なアイデアが生まれにくくなる課題が出てきたという。
人間には、ステレオタイプ(多くの人に浸透している偏見や固定観念。「血液型がB型の人は自己中心的」など)やハロー効果(目立つ特徴が全体評価に影響を及ぼすこと。「一流大学を卒業した人は仕事の面でも優秀」など)といった無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)がある。人の判断だけではスクリーニングの精度や面接担当者による評価のバイアスが入るため、同社が目指す人材の多様性を実現するには限界があった。客観的なデータと事実(ファクト)に基づいて人材を採用できる仕組みと、チャレンジ精神を有する人材を集める仕掛けを構築する必要があった。
③打った手と成果
同社の長期ビジョンが目指すあるべき姿を実現するには、自ら考え、行動することにより変革を起こす人材の育成が欠かせない。そこで同社は社員の資質や適性を可視化し、効率的かつ効果的な人材計画・人材配置を可能にするため、2021年にHRテックの専門チームを立ち上げ、HRDXに本格的に着手した。
具体的には、独自のピープルアナリティクスAIを開発し、2022年度入社の新卒社員の採用活動から導入した。応募者のエントリーシートの属性データ(専攻分野、性格、特技など)や適性検査、面接情報などから同社に必要な人材像を定義。社内のHR専門のデータサイエンティストが統計や行動心理学などさまざまな観点から応募者のデータを分析し、4つの人材タイプに分類(ポートフォリオ)して可視化した。採用担当者の理解のもと採用面接の評価項目や採用基準に客観的なデータを取り入れ、データから導き出された課題とソリューションを活用するなどして人材の見える化を図った結果、同社は幅広いタイプの人材の獲得につながったという。
一方、同社はピープルアナリティクスAIを運用するなかで、求める人材(挑戦する人材)が持つ要素を特定。その上で、挑戦する人材を多く採用するには、まず面接担当者がそれらの要素を備えている必要があると考えた。またピープルアナリティクスAIの分析により、応募前の引き付けや魅力付け、ブランディング、面接担当者と応募者の相性、内定後のオンボーディング(新卒・中途社員の定着と早期戦力化を図る取り組み)などについては十分に対応できていないこともわかった。
そこでピープルアナリティクスAIで導き出した人材ポートフォリオから、人間関係に興味がありプレゼンテーション能力が高い因子を特定し、この因子が高い人材を「アンバサダー」と定義。〝広告塔〟として会社の魅力を社外に発信する「ブランディング」、応募者に対して入社の動機付けを行う「リクルーター」、入社後にコミュニケーションを通じて精神的支援を行う「オンボーディング」という3つの役割を担う専門ジョブ(役割)として創設した。アンバサダーのメンバーは社内公募や外部採用により集め、採用説明会でのプレゼンテーションや面接官、メンターとして活動している。
これら一連の施策により、同社は多様な人材の獲得に成功しただけでなく、「第8回HRテクノロジー大賞」(主催/「HRテクノロジー大賞」実行委員会)の「採用部門優秀賞」を受賞(2023年)するなど、企業ブランディングの向上にもつながっている。
④学ぶべき成功のポイント
同社は2022年に、いわゆる〝KKD(経験・勘・度胸)〟に頼るのではなく、データとファクトに従って判断・行動していくデータドリブン経営を実現するため、社長直轄組織として「データストラテジーチーム(DST)」を発足した。同チームは10のセクションで構成され、ブランディングや人的資本経営の実践、AIやメタバースなど、それぞれが横断的にテクノロジーの活用を進めている。人材採用においては、同チームと人事が連携してデータを収集し、データベースを構築。ピープルアナリティクスAIにより採用施策の問題を抽出し、改善するサイクルを繰り返すことでデータドリブンな人材採用を実現している【図表5‐22】。
同社は今後、人材採用にとどまらず、労務など他の人事領域においてもピープルアナリティクスAIの活用に取り組んでいくという。
同社の取り組みで強調したいのは、HRDXの主眼が、長期ビジョンで設定したあるべき姿(ToBe)と現状(AsIs)のギャップを克服することに置かれていることだ。ダイバーシティーやスピードアップ、新たな挑戦、競争・実力主義などの具現化を目指すため、「人」に着眼してピープルアナリティクスAIを自社開発。多様な人材を採用して社内風土を変革するとともに、DSTを発足して採用と関連するセクションと人事担当者が連携しながらデータドリブンな人事施策を推進している。
もう1つの同社の特筆すべき点は、HRDXの取り組みを「採用ブランディング」の強化につなげている点だ。採用ブランディングとは、新卒者や転職希望者におけるブランド力のことである。経営理念やビジョン、社風、社員の働く姿や職場の雰囲気、福利厚生、待遇、経営者の魅力、社会貢献活動などを発信し、採用市場で共感や信頼感を得て、多くの人に「この会社で働きたい」と思ってもらうことである。会社自体の知名度は高くなくても、採用ブランド力が高ければ応募数は多くなる。同社は自社開発したピープルアナリティクスAIの分析をもとにアンバサダーという独自の専門職を創設し、採用イベント(社員座談会、大学の研究室訪問など)でのプレゼンテーションを通じ自社の魅力付けと入社意思の獲得を進めるという、いわば採用活動の〝社員インフルエンサー〟を育 成することに成功している。
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「自社がDXを通じて何を目指すのか」というビジョンからDX戦略を描き、実践すべき改革テーマへ落とし込むメソッドを提言します。
