人事コラム
人的資本経営を推進する体制の作り方
経営・現場を巻き込み、人材戦略を経営戦略と連動させる全社推進の具体策を解説します。
人的資本経営の実現には、人事部門だけでなく経営層と現場を巻き込んだ全社横断の推進体制が不可欠です。本記事では、人的資本経営の本質的な目的から戦略連動・情報開示・モニタリングまで、推進体制構築の具体的な考え方を解説します。
人的資本経営は、仕組みを整えてこそ現場に根づく。
人的資本経営、その本質はどこにあるか
人的資本経営とは、社員を単なる「コスト」ではなく「価値を生み出す資本」として捉え、そのポテンシャルを最大限に引き出すことで企業の持続的成長につなげるアプローチです。従来の人事戦略が、労務費のコントロールや人員配置の最適化といった「管理」に重きを置いていたのに対し、人的資本経営では、一人ひとりの経験やスキルを企業価値そのものの源泉と見なします。
いま、この考え方が急激に浸透している背景には、事業環境の非連続な変化があります。DXの進展やAIの台頭、人材の流動化といった波が押し寄せる中、企業は「経営戦略と人材戦略をいかに連動させるか」という本質的な問いに直面しています。
変化の激しい環境下でも力強く成長を続ける企業に共通しているのは、社員が受け身ではなく当事者意識を持ち、自律的に価値創出に向かえるような「仕組み」や「組織風土」が整っている点です。個人の創意工夫だけに頼るのではなく、組織全体を従来の管理型から自律・共創型へとアップデートしていく。その確固たる基盤となるのが人的資本経営です。
近年はコーポレートガバナンス・コードの改訂なども影響し、上場企業を中心に人的資本の情報開示が強く求められるようになりました。しかし、ここで陥りがちなのが「KPIの設定や開示そのものが目的化してしまう」ことです。指標はあくまで、組織の根本的な課題を解決し、実態のある推進体制を構築するための手段に過ぎません。開示の枠組みを超え、いかに組織全体の変革へとつなげていくか。それこそが、人的資本経営の本質だと言えます。
経営戦略と人材戦略を連動させるには
人的資本経営を実践するうえで、まず直面する核心的なテーマが「経営戦略と人材戦略の連動」です。経済産業省の「人材版伊藤レポート」でも提唱されている「As is-To beギャップの定量把握」がまさにこれにあたります。自社の経営戦略を実現するために不可欠な人材像と、現在の組織の実態の差分を捉え、客観的な事実に基づいて施策の優先順位を決めていくプロセスです。
この戦略の連動を「絵に描いた餅」にせず実務に落とし込むには、採用から配置、評価、育成、そして退職に至る「人材マネジメントのフロー」全体に一貫性を持たせることが不可欠です。しかし現実には、多くの企業がここで壁にぶつかります。特に断絶が起きやすいのが、「評価」と「育成・配置」の間です。日々の評価が、どうしても「賞与や昇給を決めるための過去の査定」に終始してしまい、未来に向けた人材育成や最適な人員配置に接続できていないケースが後を絶ちません。
ここを改善するための第一歩は、評価の目的を「人材育成に向けた、個人の強みと課題を可視化するプロセス」と再定義することです。そして、その変革の鍵を握るのが一次評価者の管理職の存在です。現場の管理職に対し、実績を正しく評価するスキルだけでなく、メンバーの持ち味を見立て、それをどう活かすかを引き出す「フィードバックの技術」を身につけてもらうこと。これが、戦略と人材を真に連動させ、組織を動かすための最も確実なアプローチとなります。
全社横断の推進体制をどう構築するか
人的資本経営の推進において、多くの企業が陥りがちな罠があります。それは「人事部門だけの孤独な取り組み」になってしまうことです。人事が単独で旗を振るだけでは、施策が現場に浸透せず、経営戦略との連動も絵に描いた餅になりかねません。真に実効性を持たせるには、経営陣、人事、そして現場の各事業部門が三位一体となって連携する仕組みが不可欠です。
この連携の要となる人事部門の役割は、本来、大きく3つの機能に分けられます。経営戦略を人材面から牽引する「戦略人事」、評価や育成の仕組みを整える「インフラ人事」、そして給与計算や労務管理などの日常を支える「オペレーション人事」です。人的資本経営を推進するためには、第一の「戦略人事」として、経営目線で能動的に動く強い人事部門への変革が求められます。しかし現実には、多くの人事部門が日々の膨大なオペレーション業務に忙殺され、戦略を描く余裕(稼働)を持てていないのが実情ではないでしょうか。
このジレンマから抜け出すための第一歩は、まず「やらないこと」を決める勇気を持つことです。長年続いているだけで効果が検証されていない形骸化した研修の廃止や、定型業務の思い切ったシステム化・アウトソーシングにより、意図的に「余白の時間」を創り出すことが先決です。そうして捻出したリソースを使い、全社課題を解決するための横断プロジェクトを立ち上げ、そこに中核となる人材を専任でアサインする。少し泥臭く聞こえるかもしれませんが、これこそが「戦略人事」を机上の空論から実践へと移す、最も現実的で確実なアプローチです。
現場社員が自分事として動き出すために
推進体制を整えても、現場社員が人的資本経営を「経営層や人事部門の取り組み」と捉えている限り、組織全体への浸透は進みません。社員一人ひとりが自身のキャリアと組織の方向性を結びつけて考えられる状態をつくることが、自分事化の本質です。
自分事化を促すアプローチは「仕組みの変革」「文化の変革」「教育の変革」の3つに整理できますが、着手の順序が重要です。「挑戦してほしい」と発信しながら、失敗すれば減点される評価制度のままでは、社員は会社への不信感を抱くだけです。まず「仕組みとして担保できること」を先に整備し、その後に文化・教育の取り組みを走らせることが鉄則です。
ある機械系の専門商社(社員約300名)では、若手・中堅が自ら組織課題を抽出し、解決策を経営陣にプレゼンして実行権限を得る「全社業務改善プロジェクト」を発足させました。当初は「どうせ言っても変わらない」という空気でしたが、提案したシステムの導入や不要なルールの撤廃が即座に実行されたことで、「自分たちが会社を変えられる」という意識が芽生えました。さらに、このプロジェクト活動を有志の取り組みにとどめず、人事評価の項目に組み込み、基本給への反映材料としたことで、継続的な定着につながりました。
人的資本経営のPDCAを実質的に機能させるには
人的資本経営を継続的に改善するには、施策の効果を定期的に測定し、課題を特定して次の打ち手につなげるPDCAサイクルの運用が不可欠です。
人事KPIは、「組織変革KPI」(総人件費・労働分配率・人的資本ROI・労働生産性など)、「ジョブ変革KPI」(プロフェッショナル人材数・中途採用比率・ラインポスト充足率など)、「DE&I KPI」(女性管理職比率・男性育児休業取得率・外国人技術者比率など)の3領域に分類され、経営戦略・人事戦略の実現に向けたロードマップと連動させることが重要です。
中小企業においては、ISO30414(人的資本に関する情報開示の国際ガイドライン)の58項目すべてに対応することは現実的ではありません。まず社外開示が求められる項目を優先し、エンゲージメント・定着率・労災発生率・社員一人当たりの生産性・人的資本ROIなど、自社で把握可能な指標から段階的に整備していくことが現実的なアプローチです。
エンゲージメントスコアは、初回の測定値を基準として経年変化をモニタリングすることに意味があります。部門別・階層別・勤続年数別などの区分ごとに測定し、スコアの推移をもとに施策の効果を評価したり、新たな対策を検討したりすることが重要です。
モニタリングの最終的な目的は、「人材価値→組織能力→企業価値→ブランド価値」へと連動する経営基盤を構築することです。数値の収集にとどまらず、各社の経営意志を反映した指標の運用と、それを経営・人事・現場が共通認識として持ち改善行動につなげる仕組みこそが、PDCAを実質的に機能させる条件となります。
